わくわくの日々

杉並区議会議員・松尾ゆりのブログ

原発避難の方々を訪問(7月20日記)

東吾妻町の杉並区施設などに南相馬市民約150人が避難しています(当初は400人)。そこで、避難している市民の方々、市職員の方々のお話をききにいきました。休日にご迷惑だったと思うのですが丁寧に対応していただきました。訪ねたのは、杉並区の保養施設「コニファーいわびつ」と地元東吾妻町の「ふれあいの郷」(町立温泉施設、福祉施設)です。
南相馬市は「市長メッセージ」を発し、市民の「帰還計画」をうちだしています。仮設住宅は数の上では受け入れられる程度にあるそうです。しかし「ふれあいの郷」で話した子どものいる世帯は皆、市内に帰らず、避難先の群馬県で町営住宅に入るとのことでした。理由はもちろん放射能です。市にはかなり批判、不安の声が手紙やメールで届いているようです。「安心できないのに戻れというのか」という市民の気持ちなのでしょう。
(1)南相馬市役所東吾妻出張所
最初に職員のAさんに話を聞きましたが、のっけから「いやー、実は私、3年前、杉並区役所に出向で行っていたんです」と言われ、いっきになごんでしまいました。この方が、私たちの受け入れを手配してくださり、電車でうかがった私たちを駅(JR吾妻線群馬原町駅)まで出迎え、さらに「ふれあいの郷」から「コニファー」まで車で送って下さったのでした。ずっとつきそって下さり、本当に申し訳ないほどでした。
さて本題。
◎2施設への避難の状況
・もともと南相馬市鹿島町1万、原町市5万、小高町1万が合併した7万人の町。現在は市外に避難した人が多く、人口で半分ぐらいになっている。特に子どもがいない。市内では子どもの姿がみえない。
小高町は20キロ圏内で強制避難。東吾妻に来ている人たちは、ほとんどが最初のころに小高から避難した人。一部浪江町の方も。年齢構成は50代以上が60%。
・避難者のこれからの転居先として、公営住宅が提供されているが、地元東吾妻町には公営住宅がなく、隣の中之条町の町営住宅(20戸)、群馬県営住宅(96戸:前橋)、このほか民間住宅の借り上げ仮設への転居など。
南相馬市の苦境
・市の一般会計300億に対し、6月補正で120億をたてた。税収は今年度50億減が予想されている。財政的にはかなり厳しい。
・中小企業は45%再開。再開できないのは、震災被害のほか、製品の放射能検査などで採算が合わないのではないか。
・大手小売(マック、ユニクロヤマダ電機など)が再開していない。撤退するのではないかと言われている(お客がいなくなって採算があわないっていうことか)。町の商店は、がんばって店をあけている。
◎「帰還計画」
南相馬市は、7月8日付で市長メッセージ、「帰還計画」を発表。そして「南相馬市内の状況報告」を配布しました。私たちが訪ねたとき、ちょうど避難している人たちへの説明を終え、今後どうするかの意向調査をしているところでした。
「帰還計画」とは…
・市外の一次避難所(体育館や公共施設など)は7月末、二次避難所(ホテル、旅館などの借り上げ避難所)は8月末に撤退の予定。一次避難所を退去したあとは、仮設、民間賃貸(借り上げ仮設)、二次避難所、自宅などに転居する。
・二次避難所(「コニファー」などはこちらにあたる)に入所している市民は…「可能な限り自宅に戻ります。また、自宅に戻れない市民は、応急仮設住宅へ入居し、自立への道へ踏み出します」…(このあたりが避難している人たちの逆鱗に触れたのではないかと思います。)
「市内の状況報告」…
仮設住宅:現在1650戸あり最終的に2452戸になる計画。(うち市外新地町で100、相馬市で270戸提供をうける)
・学校・幼稚園・保育園:30キロ圏内は閉鎖中。30キロ圏外の市内鹿島区にスクールバスで通っている。
・病院:外来はほぼ正常。入院は閉鎖中(市立病院ほか3病院が総合病院で205床)
・介護:入居施設は30キロ圏内は閉鎖のため、養護老人ホームは移転。施設は満床。在宅サービスは事業所が戻っており提供できている。…
放射線量などのモニタリング、除染などについては、「直ちに健康被害をもたらすことはない」とか「基準値以下」とか国の説明の口移しで、しかも数値は示されていないので、到底安心にはつながらない説明です。避難してきている市民にお話を伺いました。説明された市の方針に対して、市民の受け止めは厳しいものです。
(2)避難している人たちの話
「ふれあいの郷」は入浴施設です。実は私も「コニファー」に家族旅行したときにここに来た覚えがありました。町営温泉と福祉活動のスペースが併設されています。多くの方が避難していたのですが、閉鎖間近ということで、かなり人数は少なくなっていました。この日はそのうち3家族とお話ができました。4人の女性と子ども5人、この方たちは、わりと広い部屋とはいえ、1部屋に仕切りなしで住んでいました。プライバシーがないといえばないのですが、3家族で仲良くやっているそうです。1人の女性は調理師で、料理に活躍されているとのことでした。
・Bさん:南相馬市原町区から。自宅は全壊。夫は自営業で市内に戻って仕事をしている。子どもは中・高生。
・Cさん(お姑さん)、Dさん(お嫁さん):浪江町から家族で避難。子どもは小学生。
・Eさん:南相馬市原町区から。夫は市内で働いている。小学生ふたり。
3世帯とも中之条町営住宅にひっこしが決まっている(赤十字から支給される仮設住宅の「家電6点セット」が届きしだい転居するだんどりになっているが、この6点セットがなかなかこないのだそう)。みなさん「市は戻ってこいというけど、放射能が心配で、子どもは南相馬市に戻したくない。また、現地の学校になれてきて友達もできたので、続けて通わせたい」と考えて中之条町営住宅を選んだのです。
「市は帰ってこいというけど大丈夫とは思えない」「東電も国も色々いうけど、うそばっかりで信用できない」「学校が再開されるというが、しばらく様子をみないと安心できない」と口々に。
「どういう状況になったら帰れると思いますか?」と聞いてみました。
「とにかくまずは学校などが正常に開かれること。でも、それでも戻れない。1年ぐらいは様子を見て安全と思えれば帰るけど…」
職員のAさんが「市としては、学校を夏休み中に除染すると言っているから、多分秋には再開するつもりだろう」と言うと、Cさんが「学校だけ除染してもダメ。自宅やまわりも全部やらないと。だけど自宅は市がやってくれなくて、自己責任だっていうんでしょ。自宅には庭も畑もあって広いから自分ではとてもできない。通学路だって除染しなくては。子どもは草むらにだって入るんだから」
Bさんは北海道に子どもの避難キャンプを申し込んでいたのに福島県が補助してくれないことになり、自費負担が発生するので困っていると言います。
お母さんたちは、皆、勉強の遅れが心配といいます。避難のために遅れてしまったけど、いまの学校でフォローしてくれるわけではない、とのこと。
「そういえば、杉並区から教員(区費教員)を派遣した。あの人たちは?」とききましたが、勉強の指導ではなく、心のケア、遊び相手を担当していたそうです。
Bさん、Eさんは夫が市内で働き、母子が群馬県に住むという別居状態になります。それでも南相馬市には戻らないという考え。それも国や市に対しかなり不信感をもっておられる印象でした。
ひとしきりお話をうかがって、次は「コニファー」へ移動。
(3)「コニファーいわびつ」
以前、子どもを連れて訪れた「コニファーいわびつ」はなつかしい施設でした。キャンプやバーベキューもできるし、スポーツをする人はテニスやサッカーもできます。いいところです。9月をめどに避難所としての役割を終えて、保養施設として再開に向けて動き出すとのことでした。
◎コニファーでの生活
・高齢者がほとんどで、避難後すぐは体調を崩す方も多かった。現在デイ1名、ショート1名地元で利用している。家族の負担軽減のため。単身の方で認知症の人がいたが、養護老人ホームに措置入所された。
・病院へ行くために毎日バスを運行(朝9:20に出発。行きたい人は事前にロビーにある通院申込書を書いてもらう)病院では時間がかかるため、毎日別々の診療科にかかっている人もいる。毎日平均15〜16人。
◎施設内のようす
職員のFさんに施設内を案内してもらうと、ロビーに南相馬市の各地でとってきた「今のようす」の写真がはってありました。それを見て、Fさんが「高齢の方たちは、被曝してもよいから戻りたいという思いが強いです」と言われました。Fさん自身、浪江町の出身で、今は帰ることができません。父母兄弟は現在ばらばらに、それぞれ仕事の関係で別なところで暮らしているそうです。職員も避難者です。
「コニファー」はもともと宿泊施設ですから、体育館などの避難所と比べ、いい状態で暮らせています。それでも最初は満杯だったので、ふとんもびっしりひいているような状態だったそうです。本来宿泊用でない大広間もつかっています。
大広間には、よく避難所にあるような仕切りがありません。最初は仕切りをいれなくてはと考え、杉並区が測量もして行ったそうですが、利用者の人たちが、ないほうがよいというので取りやめたのだそうです。お互いに交流しやすいとか、いっしょにお茶したりできるというので。もともと小高町の人が多く、単身高齢者の方も多いので、となりの人と話できるほうがいいのだとか。
風呂掃除、配膳などの当番も交代でやっています。「自治会」のおしらせも貼ってありました。住民が自主運営をしています。玄関で出会った施設の職員さんは「ボランティアの方たちもたくさん来てくれるけれど、それに参加するだけでなく、避難している人たちが自分で企画する取り組みなどもしています」とのことでした。
最も厳しいと感じたのは看護師のGさんの話。彼女は、子ども2人(小学生)と避難。家は原発からなんと「21キロ」のところにあります。現在は病棟が閉鎖中のため避難していますが、病棟が再開されると戻らなくてはなりません。でも、みすみす「21キロ」に小学生を連れて帰りたくないのです。彼女が自宅に戻り、両親が群馬に来るということも考えたそうですが、90代の祖父母も同居しており、両親は動けません。結局自宅に帰らざるをえないのかと悩んでいるそうです。
コニファーは山の中にあって不便なところなので、車がないと買い物にもいけません。1日おきに施設のマイクロバスで駅近くのスーパーまで買い物ツアーに行くのだそうです。この日も3時出発のバスにのるためロビーに買い物の人たちが集まってきていました。こうして、それなりに、安定して暮らしているところへ、今回の「帰還計画」で退去期限を知らされて気落ちした人も多いとのことでした。
今回の訪問のきっかけは「被災した方、避難している方のために何かできることはないか」と問われたことでした。しかし、ここではすでに退去へ向けた動きが始まっていることもあり、「何かしてほしい」というものがあるわけではありません。
子どもをもつお母さんたちと話して感じたことは、どうすれば安全なのかが、誰にもわからないということです。当事者の人たちすら正確な情報を与えられず悩んでいます。何か「支援をしてあげる」と考えず、同じ母親、同じ市民として「ともに悩む」ことこそが、まず私たちにできることかなと思って帰ってきました。