わくわくの日々

杉並区議会議員・松尾ゆりのブログ

仙台・福島へ(8月4日記)

◎東北朝鮮学校
今回は、岩手に赴任する知人の車に便乗。仙台、福島を訪ねました。最初に、知人が訪ねた仙台の朝鮮学校へ同行しました。
仙台の朝鮮学校、正式には東北朝鮮初中級学校。昔は高校もあったそうですが、現在は小中学校のみ。この学校は、仙台の山の上にあって、緑豊かで広々としたキャンパス。街中から出発すると青葉城東北大学、まさに杜の都を駆け抜けた(というとかっこいいけど、迷った)先にあります。この日は夏休みなので、生徒は部活のために登校、サッカー部と舞踊部(というのでしょうか。民族舞踊の子たち)の練習風景がみられました。
校長先生が迎えてくださり、知人が支援物資をお渡ししたあと、キャンパス内を案内していただきました。
<校舎全壊、寮で授業>
震災で校舎は「全壊」となりました。1971年に建設されたので、40年もたっており、老朽化していたとはいえ、職員室の廊下側の壁が完全に倒れガラスが散乱していました。上階に行けばもっとひどい状態だそうです。幸いなことに、教員・生徒は全員無事。数日前にわりと強い地震があり、そのときに、「もしも大地震がきたら」という防災の心得を徹底していたとのこと。
校舎が「全壊」と認定されたため、使えなくなり、現在は教室も職員室もすべて、宿舎(旧学生寮)に仮住まいしています。もちろん、校長室も。もともと4人部屋の小さな部屋で、つくりつけのベッドがそのまま残っている部屋の、狭い共有スペースにほんの数組のイス・机を入れて授業をしているのでした。
<避難所へ支援の活動>
キャンパス内の食堂では舞踊の練習をする子どもたち(乙女たち、かな)。この食堂は震災後の拠点になりました。震災直後は電気、ガス、水道が全てとまり、雪も降るという中、食堂に集まって、支援などの活動を行ったとのこと。学校には人的被害はなく、支援物資なども寄せられ、物的な不自由はあまりなかったようです。むしろ、近所の小中学校や施設に避難した方たちのために支援物資を運んだり、おにぎりを握って炊き出しをしたりという活動をしたそうです。
「全壊」の建物は全額公費負担で取り壊しが行われるそうです。それはいいのですが、新しい校舎を建てなくてはなりません。もとは鉄筋4階建て。「同じような建物を建てるんですか?」と聞いたら、「いえいえ、とんでもない」。最盛期は小中高あわせて900人もの生徒がいた学園も、現在は小中25人なのだそうです。「現在の倍としても50人程度が使える規模のものと考えています」とのこと。しかし、それでも建設費は2億円ぐらいになりそう。公費補助は半額なので1億円を自前で払わなくてはなりません。その上、ひどいことに宮城県朝鮮学校への通常の補助金をストップしています。東京と同じ!
「学校は物資に不自由しているということはありません。むしろ全国から支援物資が送られてきて、差し上げているくらいです。問題はこれからの校舎建設に向けて、お金が足りない、ということ」と校長先生。
仙台の朝鮮学校が校舎倒壊にもかかわらず、被災者の支援活動、炊き出しを行っているということは、震災直後に伝えられました。校舎の再建に対して、国や県はどう支援するのか。しないのか。
福島県庁〜高齢者施設と震災避難
 岩手へ向かう知人と別れ、私は新幹線で福島へ。仙台と福島って、新幹線だと30分なのですね。福島県庁は、福島駅から徒歩10分ほどなので、歩いていきます。県庁へ行ったのは、震災・原発避難で高齢者施設などがどうなったのかを教えてもらうためでした。以下、そのお話。
<31施設、2000人の高齢者施設が閉鎖中>
現在、20キロ圏内(警戒区域)、30〜20キロ(緊急時避難準備区域)、計画的避難区域飯舘村など)の3つの区域内では入居施設が運営できません。建物に全く損傷なかったところでも(大丈夫だったところがほとんど)建物だけ残して、入居者は避難を余儀なくされています。
その数は合計で31施設(定員合計1774床+ショートステイ200床)。2000人もの高齢者の方々はどうしているのか。グループホーム11カ所153床も含まれます。認知症の方々は生活できているのか。
県庁の担当の方は現状をすべて把握しているわけではありませんでしたが、使えなくなった施設の利用者のうち、多くは避難先などの施設に入ったのではないかということでした。というのは、県に直接、施設入居の問い合わせが来るのだそうです。本来介護保険だから市町村が対応するところなのですが、市町村役場じたいが移転などで対応ができないところが多い。県庁の高齢者福祉課が直々に施設とかけあって入居を斡旋しているということでした。
施設側は「オーバーベッド」の状態です。利用者の増加が一時的であればともかく、長期化していくので、当然利用者数に応じて職員も新規雇用しなくてはならず施設の負担になっているとのことでした。
現在休止している31施設の運営主体は、多くが地元密着の社会福祉法人であって、1つの施設を運営するための法人。いくつもの施設を他の地域にもっていれば利用者も職員もそこへ移れるのですが、そうはいかず、再建はまず無理だろうとのこと…。
<仮設でオープンする施設も>
グループホームのうち2カ所は民間の賃貸物件で仮オープンしているそうです。この2カ所を含む4カ所が仮設グループホームへの移転を希望し進んでいます。一方、特養は設備的な基準などから仮設でのオープンは難しい(国が許可しない*)とのこと。じゃあ、どこか別の町にちゃんと建物を建てて再建ができるのか?というと、もちろん相当の資産がなければ新たな施設は建てられない。二重ローンになる場合もある。
(*その後、国は条件付きで仮設の特養を認めました。)
浜通り地方の施設が軒並み閉鎖状態というと、県全体の施設需給にも大きな影響があるのではないでしょうか? ちなみに県全体の施設数は特養+老健で約16000床。31施設のうち特養、老健の定員は1400床余りなので、1割弱に相当します。いや、待てよ。東京と違って、定員よりもそもそも空きがあるのでは? とも思ったのですが、そんなことはないそうです。入居待機者が列をなしているのは東京と同じ(もちろん数は違うけど)。そういう状態のところにさらに避難した人たちが入っているためのオーバーベッドです。
「では、さらに特養などを増やさないとですね?」とふると「いえいえ。もう施設は建てません」というのが県の答えでした。もちろん、今回の震災、原発のために福島県は際限のない出費を迫られ、それどころではないというのはわかりますが、このままでいいとは思えませんでした。県だけでどうしようもなければ、国や東電に要求することも必要だと思います。
前に福島県庁に伺ったとき、仮設住宅の高齢者サポート拠点(デイサービス、配食などを行ったり、保健師が常駐など)についてお話を聞いたので、その後どうなったかをききました。2、3の拠点がそろそろ稼働するそうです。「仮設住宅が不人気だったりするので、サポート拠点が仮設の目玉みたいに宣伝されてます。そういうつもりで作ってるわけじゃないんですけどね」と苦笑のエピソードも。
◎「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」(略称「子ども福島」)
駅からの道すがら、県庁前の政府刊行物・官報を扱っている本屋を通りかかりました。すると入口に「新しい放射能汚染分布図あります」と分布図のコピーが貼りだしてあるんです。こんなお役所系の本屋まで…!それから、途中の商店街でも「放射能を体から出す」という能書きでデトックス食品が売られていたり。日常生活の中で普通に放射能と向き合わなくてはならない光景。
さて「子ども福島」へ向かいます。だんどりの悪い旅だったので、当日の昼頃電話をして「お話をうかがいたいのですが、可能でしょうか」という申し込みにもかかわらず、連絡担当の方も事務所番の方も丁寧に応対してくれました。
放射能と向き合う生活>
県庁からほど近い場所に事務所を構えて(もとは喫茶店の一部だったらしい)平日の9〜5時は必ず人がいるそうです。「事務所を持ったことで運動がやりやすくなり広がりました」とのこと。実際、相談やボランティアの申し出に来る人、私のようにようすを聞きに来る人などが絶えないそうです。私が行ったときも、当番のスタッフのほか、ボランティア希望の男性が来ていました。また、しばらく前に「市民放射能測定所」が事務所内に設置され、この日は「依頼を受けて外に測定に行っている」とのことでした。
お話をきいてカルチャー・ショックを感じたのは、福島では、放射能をいかにとりこまないか、ということと同時に「すでにとりこんでしまった放射能をいかに排出できるか」「健康への影響を最小限にとどめられるか」ということが現実の課題になっていること(そのためのデトックスや健康食品情報など)でした。駅からの道すがら見てきたさりげない光景もその一部です。私たち東京の人間が感じている漠然とした恐怖とは違う段階に入っていることに、大きな落差を感じます。福島では被曝の現実を知って、知識も得て、精一杯対処していかなくてはならないのです。
<避難を困難にするバリアは>
とても気になっていたのは、避難地域に指定されていないが放射線量の高い中通り地方の福島市郡山市などの子どもを避難させるべきではないかということです。なにが避難の障害になっているのでしょう?
「理由はいろいろあるのですが、まず心理的な面、考え方。仕事や学校がある。中高生になると部活があったり友人と別れたくない。もちろん家族の反対もあります」
原発から遠いから大丈夫、という方。「年寄りを置いていくのか」と反対する家族。お母さんは避難したいのにお父さんは「気にしすぎじゃない」というケース(またはその反対)。
「それとともに、被曝地という認識ができていない面もある」
え? ちょっと意外でした。
「でも、症状は出ているんですよ。鼻血が出るとか。のどが痛いとか。私も口のまわりが腫れました。」
私はこの話をきいて、「杉並病」のことを思い出しました。同じです。杉並病の場合も、多くの方が、症状は出ているのに「私は公害の被害者ではない」と(被曝の自覚がないまま)重症になっていきました。公害を出している都と区は、御用学者を使い「症状は心因性のものである」と決めつけ、公害が続いていることを否定し続けました。杉並病と違い「放射能」という誰もが恐ろしいと知っている毒物なのに、それでも同じことが起きている…。
長崎大学の山下俊一教授の『洗脳』の影響が大きかった。年間100ミリシーベルト以下は大丈夫と思わされてしまった」(山下氏は7月に福島県医大の副学長に就任。県民健康調査に携わるそうです。福島は実験場なのでしょうか)。
避難先での差別の話もありました。「放射能がうつる」なんて、なんというバカな話なんだろうと思っていましたが、本当に言われるんですって! ある方は避難していった先の親戚に「家に入る前に着てきた服は全部脱いで」と言われたそうです。親戚ですよ!
さて、いまネットワークで力を入れていることのひとつは「記録すること」。自らの被曝量を記録することで、将来健康不調が起きたときに証明できるようにすること。考えようによっては恐ろしいことです。「将来の健康不調」がないほうがいいんだから。しかし、放射能が相手です。最悪のことも考えなくてはなりません。
<地域から変えていく>
そして、もうひとつ「条例の変更などを求めていくこと」。これはちょっと唐突な感じがしたのですが、実は子どもたちの避難のため。避難させたいと思っても子どもを避難させることのできない家庭は多く、そのための公的な支援や「避難する権利」を確立する条例づくりが必要。でも、たとえば住民投票で決定したいと思っても、とてもハードルが高いのです。地方自治体(県や市町村)とその制度をどう変えていくかが、ここでは直面する大きな問題になっているのでした。
「政府交渉もやってきたけど、らちがあかない。地域で制度を変えていかないと」
ちょうどこの週、福島市は市議選の真っ最中で、宣伝カーも走っていました。けれど、掲示板のポスターで見るかぎり市議会は原発問題にあまり関心もっているようには見えませんでした。共産党は「脱原発」、公明党は「福島には原発いらない」(「福島には」ですが)と書いています。しかしその他の候補者で原発問題をポスターに書いていた人は3人だけでした。市民の日常と議会の温度差を感じます。
放射能から子どもを守ろう、と必死にやっていった先が、結局、やっぱり地方自治に行き当たったということ。自治とか民主主義ということを考えさせられます。